昭和49年07月22日 朝の御理解



 御神訓 一、「心にかくる守りは汚れるることはなきものぞ。」

 これは今日の昼の丁度昼の信行後の御神訓にもあたっております。だからそれを詳しく頂いてみたいと思います。御神訓一つ、心にかくる守りは汚れる事はなきものぞ、心にかけるお守り、それは穢れることも汚れる事もないと仰っておる。穢れる事も汚れる事もないと言う事はどう言う事だろうか。確かに神様を唱え、神様を頂いて、心の中にも頂いておる筈ですけれども、やっぱり心が汚れたり、心が穢れたりするんです。
 だから穢れない汚れないお守りとは、どう言う事をさして、教祖の神様はこの様に御教え下さってあるかと言う事で御座います。今朝私は起きがけにお夢を頂いた。それは丁度ここの東脇殿と本館の真ん中に大きなあのヒマラヤスギがありますね。もう珍しい大きなあれは木ですけれども、あれよりももっと高い、あれよりもう一回り大きいと言う様な、榊の木を頂いたんです。
 ほ、こらまあなんと素晴らしい、それが合楽の境内に植わってるんですね。もうそれこそ天をまするような感じで、大きいしかもしこってその葉の綺麗なこと、綺麗なことこう消毒もこんな大きなされまいのに、どうしてこんなに葉が一枚一枚綺麗だろうか、もうこれから大祭やらん時の玉串は、この一枝を切りゃ十分できるたい、と私が思うておる所して、下から上をこう見上げておる所で目が覚めた。
 榊というのは木辺に神という字を書いて榊と読む。ね、だから私は神心と仏教で慈悲を説き、キリスト教で愛を説く、その仏教とかキリスト教、いわゆる世界の大宗教と言われる大宗教が、まそれぞれのやはり一心になるものは、慈悲であり愛である。金光教は何を持ってその芯とするかといろいとに言われます。真心、真とね、実意丁寧と言った様な、ま色々なその確かに信心、真心でもなからなければなりません、実意でもなからなければいけませんし、ね。
 いわゆる、真一筋でなからなければいけませんけれどもです、どこから出てくる真、どこから出てくる実意でなからなければならないかと言うと、私は神心だと思うです。金光教は神心を説くのです。だからこそ神の心を心としてと言うわけです。ね、私共は天地の親神様の心を心として、日常生活の指針というものをはっきりしていくのです。ね、いうなら、神の心を心としての心とは、そんならどう言う様な心だろうかと。
 今日の一時の後のこの御神訓に対する御教えは、こりゃもう簡潔を要と致しますから、こんなふうに書こうと思います。仏教ではの言葉ですけれども、色即是空という、ね、いわゆる仏教はこの無の哲学だとも言われるです。ね、もう一切が無いと言う所に起点が置かれてあるわけです。一切色即是空、ね、教祖はそういう言葉では、教えておられませんけれども私は、ね、空ではなくて有です有るとみるです。
 それはどういうふうに見るかというと御物とみ、御事柄と頂くのです。ね、そこにです、神様の御守護の中に私を実感すると、金光大神取次の働きの中にある自分というものを信念するということ。ね、仏教では無と説く、金光教では有と説く。あるのだと。例えば生長の家などでは、例えばその病気というものは、ないんだと説いておりますですね。ないものをある様に錯覚、けれども実際に頭が痛かったり腹がせいたりするんのですからね。無理ですね、ないといえる事は。
 やっぱりあるやっぱり苦しい、苦しいは苦しいだからこそお縋りをする、そこにその痛みが消えると言う様なおかげに成って来るんです。ね、先日からの御理解を頂いて言うならば次元の違った世界、今まで一階におったのが、二階に住まわせて頂く、その二階はいうなら愈々合楽モード、いうならば極楽モード、しかもそれがです、ね、誰彼なしに合楽に御縁を頂いておるすべての信奉者が、一緒にもう信心が少しは足りんとか、でけておるとか、少しは病気をもっとるとか。
 まだ少しは貧乏もしとるとか言う様な人達でも、一応っこの二階に引き上げてです、愈々貧乏のない世界、愈々病気のない世界、争いのない世界に、とにかく住む事だけをまず住まわせよう、そういう大変な時期が到来してるんだと言う様な事を。昨日でしたかね、ここ二、三日の御理解がそのことばっかり、まいわば頂いておるんですけれども、そのあの田中さんのお夢から言うとです、石浦ですねここの合楽村の、合楽の中の石浦と言うところは、心の港とこう言う、ね。
 いうなら心の港に、いわば横付けされる徳の船に誰が一番に乗るかと言った様な事を、まそれが完全なおかげになっておるわけじゃないけれども。田中さんなんかは、昨日はそういう日頃の不安とか心配ととかと言う様な、いうなら事の為のに、今一生懸命信心がまあ、でけておるわけですけれども、それがおかげになったわけではないけれども、矢張りひとつのほっと安心するような働きが、昨日始った昨日から。
 久留米のあの佐田さんなんかはあちら奥さん、大体医者に見せるならば、どういうふうに言われるか分らんような、いうならば病気を持っておられる。けれどもう気にしておられない。もう神様の御都合だから、もう医者にかかろうとも思わない、薬を飲もうとも思わない。医者に言われれば、そりゃずい分これは、なん、どういう病気だ、こりゃ手術しにゃならんと言った様な事にもなり兼ねない病気を持ちながら、いわゆる神様の御都合として頂き切っておられた。
 所が昨日御祈念が終わった後にです、改めてここに出て見えてから親先生、ね、私の体の中に所謂おなかの中にしこりがあった。その為に休むのにもおおのかしになって休まれない様にあるし、その為に非常に難儀をする様な場合も時々ある訳です。それが今気がつかせて頂いたんですけれども、そのここ二、三日楽に寝れておると言う事をちょっと思うてから腹に手を当てた所が、そのしこりが無くなってしまっておる。ほんとに改めてお礼を申し上げる、今まで例えば先日からも申しますように、ね、
 これだけは、ね、仕方がないとかこれを、ね、難儀なら難儀と言うその難儀のおかげで、信心がでけておるのだから、難儀もまた有り難いのだと言った様な考え方ではなくて、その難儀そのものを、矢張りそのものをおかげにしなければならない、いやおかげにさせて頂けれる、いうならば時期が来てるんだと。今までは冬の様な冷たい寒い信心修行、ね、いうならば厳しい修行から、いっぺんに春になる様なおかげを頂かれる時代が合楽には、開かれてきた。
 今まではま是ばかりはおかげには、とてもと思うて負った様なおかげが、おかげを頂かなければ、ほんとのおかげではない、と言う様な御理解頂いたわけですけれども、矢張り佐田さんたちなんかの場合にも、ね、是が痛み出した時にはそれがおかげで信心がでけるから、医者に見するならどういうふう言わるるか知らんけれども、神様の御都合だから、是はと言う様な頂き方をしとられたに違いない、その事がです、ね、あの例えば御理解を頂いたごろからもう既にもう実はなかった。
 なかったというが、その楽に眠られないのが、眠れる様になっておった。そいでふっと気が付いてから、こうやっておなか擦った所がそのしこりが無くなっておる。ね、いうならばあるのです、あるけれどもおかげを頂いてなくなったのです。だから金光教の信心は、私はそれを素直に実際に有るはあると、難儀は難儀病気は病気とね、それをですあるとみる、ね、けれどもそれにはすべての事柄の中には難儀なら難儀と言う事柄の中には、ね、それを御事柄といて頂き御物として頂き、というわけであります、ね。
 私どもが心の中にかくるお守りというのは、どこまでも神心でなからなければならない。それは勿論、ね、ピンからキリまでありましょう。神心その神心を私どもは様々な問題の中からです、ね、神の心を心として、自分の心の中に愈々精進して行くと言う事であります。その神心は、ね、穢れる事がなからなければ、汚れる事もない。ね、煩悩具足というふうに申します。
 私は金光教の信心は、煩悩を具足しながらおかげを頂いていけれる道、これはもう、金光教、教祖の説かれたもう独自なものだと思うです。普通ではその煩悩をとるという、いうならば厳しい戒律などがあって、そして煩悩から外れると言う事、煩悩がある事はいかにも悪の様に言うておる。所が金光教祖は、その煩悩そのものを大切にされた。大事にされた。ね、ですからもういうならば金光教の信心で言うところの神心を心に頂いたら、汚れ様筈がない、穢れよう筈がないのです。ね、
 勿論御教えにもありますようにです、我情我欲を離れて、真の道を知れよと、ね、これはね情を放せ欲を放せと仰ってないわけです。ただ我情をではいけない、我欲ではいけないと教えておられるのです。ね、その欲そのものを無くしていく、その情そのものを空しゅうして行くと言う様なものである、例えば人間の素晴らしい、例えば味わいと言う様なものをです、もう味も素っ気もないものにしている教えが、私はまあ仏教だと思うですね。またキリスト教などにもそれは言えますね。
 それこそお酒ですら、飲んではならないと言う様な戒律があるんですからね。けども大酒大食はいけないけれどもです、丁度自分の体にあった様に、それこそほろ酔い機嫌の、いわば極楽気分というものはお酒を頂かなければ、でける事じゃない。ね、例えば仏教などでは昔は女犯の罪というて、お坊さんはいわゆる女を寄せ付けてはならない、ね、嫁さんを持っちゃならない、ね、そこからいわば空の道をです、いうならば修行して行ったわけなんです。
 ところが金光教祖は。そうじゃない。此方は一代仏を嫌うと仰られた。子孫が氏族が増えて行く事が繁盛だとも教えられた。ね、だから男なしには女なしにはでける筈がない。ね、そう言う事をです、例えばもし迷いがあったら破壊と言う、いわゆる戒めを破ったとして、なら仏罰を被らなければならん、と言う様な教えが仏教ですもんね。金光教の信心はそうじゃなくて、その事自体を御の字を付けて頂いていくという生き方ですから、穢れよう、汚れよう筈がない。
 有難うございます、有難うございますで頂いていけれる道なんだ。但しならその真の道を分るためには欲があっても良い、情があっても良い、ね、自分がああしたいこうしたいという思いを、ま情と言うなら、ね、あれが欲しいこれが欲しいというのが欲であるならばです、それをやがうえのもの、ね、欲の上にまた欲をすると言う様な、我の張った欲が、これはこれでは真の道が分らないと仰る。
 我情我欲を離れる所から、真の道が分り、わが身は神徳の中に生かされてあるという喜びを謳歌していけれるという道だ、金光教は。だから実にそのもう金光教の信心のね、これは私は、もう愈々独自性、独壇場だとこう思うです。神の心を心として行く信心なんです。ね、慈悲とか愛とかというその、神心の中に包含されるものなんです。ね、してみると人間の煩悩と言う、申しますけれども、ね。
 我でない限りそれは神様のお授けもの、頂けれる、神様がどうぞ頂いてくれよと言わんばかりに言うておられるほどしの、素晴らしい事をです、ね、食べちゃいかん、飲んじゃいかん、しちゃいかんと言った様な事ではないと言う事です。いうならば煩悩具足の人間、ね、それを持っておっるのが人間、それをもし持ってなかったと、ないとするならばです、それをたとえば教えとするならばです、そういう教えにはとてもとても付いて行けない。煩悩そのものをです、有難く頂いていけれる、言うならば宗教です。
 だからはぁこげな煩悩はというてこう頭を打ちぶって、それから逃れようとするけれども、どうにもこうにもでけない、ね、犯したらそれで自分はもう罪を犯したような意識に駆られて、自分の心にかけておるたとえばお守りが、穢れるような汚れる様な事では私どもはの救いはない。人間の救いはない。お道でいう助かり、救いというのはです、ね、煩悩を具足しながら、無ではなくてそこに有りと信じさせて頂いてです、ね、只それにです、ね、御事柄であり、ね、御物としての頂き方、ね。
 そこには私は穢れるものがいわゆる穢れる事のない信心が樹立されると思うです。ね、金光様の信心、心にかける守りというものは、穢れる事はない。所がなら自分の心を穢してはないか、確かに金光様と言いながらも、穢してはいないかそれはですそういう、例えば、ね、無、無と言ったっような宗教一つの観念ですかね、そういうものを私共が観念しておるからです。
 金光教の信心はそんなもんじゃない。ね、あるのです。あるとそれを感ずる、なら煩悩があると感ずる。しかもその煩悩そのものが、実はおかげだと、ね、お恵みの斧を受ける心なのですから。ね、有難うございますという心で、受ける以外にはないというのが、お道の信心です。こういう頂き方で行くなら、成程心にかける守りと言うのは、穢れる事はないというそこまで。お互いの信心をいわゆる高度化していかなければいかない、ね。私はこの色即是空と言う様な言葉は大変好きな、私の言葉ではあります。
 例えば禅の思想とでも申しましょうか、禅の哲学というても良い。ね、あの京都の竜安寺というお寺に参りますと、有名な手洗い鉢がありますね。ね、我只足るを知ると、それをこの丸いこんな筒のような御手洗いなんです。中に四角にこう手洗いの水が貯まるように作ってある。それにその一字で、たるとも、ただとも、ね、われとも、知るとも読めれるように作ってあるんです。
 吾只足を知る。これが仏教の思想です。ね、それはやっぱ金光教でもなら、現在その身そのままの中にです、どういう難儀であっても、おかげを受けておるという事実を実感すると言う事なんですけれどもね。けれども金光教の信心はです、いうなら我情じゃないけれども、欲をここに出さなければ、金光教ではないのであり、情自分の思いというものを出してこなければならない。いうならそういう意味においての煩悩というものの働きが、すがる事になるのである。
 お縋りをする、ね、金がなからなければ金を、食べ物がないならば食べ物をと、そして与えられそこから有り難いと。だからもうそれに満足しておると言った様な、私はことではほんとの発展にならないと思う。ね、それこそ限りなく恵まれ与えられ続ける世界、そういう世界を現わしていくというのがです、合楽の世界を現わして行く事だと。成程貧乏のない世界、ね、病気のない世界、争いのない世界を現わし顕現して行くと言う事。病気をしとってもです有難い。貧乏しとっても有り難い。
 不平不足はない。それが仏教のいわば、その禅の思想だと思います。只、ね、我只足るを知るという思想だと思うです。金光教の信心はそうではない。もういつも、ね、いうなら前進前進あるのみです。昨日第三回目ですか、あの記念祭の委員会の方達の会合が昨日、終日会館であっとりました。四時半ここを下がらして頂く時に、その会合のあっとることをお願いさして頂きよりましたら、いうならこういう意味の事を頂いたから、それを文章にしたんです。
 「茨の道を乗り越えて、いまこそ真の合楽を現わす時期到来の胎動を感ずる。信奉者一同ことごとく、不動名言ただ世紀の神願成就の御用にお使い回しを頂かかねばならん」ということを頂きましたから、会議中に私これを持って行きました。なら是はトバンに書いて、ま、皆さんこのことを検討された。ね、こう言う例えば胎動を、ね、感ずるほどしのものを最近の合楽に感ずる。
 いよいよ素晴らしいものが生みなされる前提を感ずる。それまでには随分茨の道も乗り越えてきたあってきた、それが二十数年間の合楽の信心であった。まあはっきり言うわけにはまいりませんけれども、ね、いうならば自力の信心ですから苦しかった。苦しい中に喜びを分るという信心であった。それがここに一変して、ね、いうならば他力本願である。神様のおかげを受ける、受けられるという時機に到来した。
 それで今まで半ば諦めておる事でも願う、願うておかげを頂くという、ね、時期にあたっておる。そういう中にです、合楽の十年の記念祭を目指すための委員会が持たれて、ね、そう言う例えばおかげを頂く、不同明倫ね、これはこの訳はどう言う事でしょうかという質問がありましたから、不動と言う事は勿論動かない不動の信念と言う事でしょうけれども、私はそこを親先生が言われる事を信ずると言う事だと、私は昨日説明しました。明倫ということは、明らかに速やかにと言う事ですね。
 もう早速その実働が始まっておるのですから、その神様の御実働に私どももそれに便乗させてもらわなければならない。もう乗れれる船はそこに横付してある。それに乗らなければいけない。今日の御理解には、これはちょっと意味が違いますかしれませんけれどもです、今日頂きましたような信心を土台にして、どのようにやっても、やってやり抜いてもです、それが自分の大好きがあるかも解りませんけれども、それは自分の我情ではない、我欲ではない。
 ただそこに合楽をほんとに現わして行く事の為に、御用にまい進すると言う様な精神を言うた訳で御座います。ね、今日皆さんに聞いて頂いた所、ね、いうならば色即是空、そう言う例えば仏教的な観念が私どもにあるとです、神様のこの今日の心にかかる、もうそれこそ心にいくら掛けておっても、その掛けておる守りですらが汚れに汚れて、はあ私だごたあっとはもうつまらん、私だごとあっとはおかげ頂ききらんと言う様な心だけしか生まれてこないです。
 けども今日皆さんに聞いて頂いたような、いうなら煩悩を具足しながらの生き方こそが、教祖金光大神の説かれた教えであり、天地金乃神様もまた、それを願っておられるのだということです。ね、食べるなとかするなとかではない。ね、それも有り難く頂くということを神様おかげを頂きましたと言うてこそ、初めて神様も喜んで下さる神様であるということをです、教祖様ははっきり教えておられるわけです。
 だからそういう心ですから、その心だから例えば私どもが日々有り難い生活の中に汚れよう筈がない、穢れよう筈がない。ね、但しその我情であってはいけないのだ、我欲であってはいけないのだと。その欲も良ければ情も良いのだ。いや良いのじゃない、それが有難いのだと。ね、煩悩を払うて信心をすると言った様な難しい信心ではない、て言う事を今日は聞いて頂きましたね、
   どうぞ。